昨年末からインフルエンザにかかって、ベッドで新年を迎えた本厄翻訳者です・・・(いやしかし、仕事のあるときにかからなくてよかった。そして、家族には悪いけど、実家にいるときにかかってほんとに助かった)
だからということもないけど、今年はなんだかゆっくり進みたい気分です。
いろんなことを整理しながら、落ち着いて過ごしたい。
そんなふうに思っていると、歩くペースもゆっくりになり
周りの景色がいつもよりもよく見えるようになってきた気がします。
先日は、通訳スクールの帰りに平和公園を通ったのですが
夜、ひとけのない原爆ドームのそばでふと立ち止まりました。
最近、広島を訪れた旅行者の方や、他県から引っ越してこられた方が
原爆ドームを初めて見たときの印象についてブログなどに書かれているのを
いくつか読みました。
立ちすくんでしまった
当時の惨状を思うと涙が出た
などなど、それぞれの思いを綴っておられます。
それで、夜の原爆ドームを見上げながら
こういう思いがこみ上げてきました。
わたしは、このドームを見ても何も感じなくなってるのでは?
見慣れてしまって、他の観光地と同じくくりになってしまってるのでは?
わたしは平和公園のすぐそばに住んでいるので、
週に何度もドームの脇を通ります。
たくさんの人が熱心に説明を読み、写真を撮っている姿が見えます。
そういうのを見るのは、広島市民としてうれしく思うのだけど
自分自身がこのドームの意味を
忘れかけてるんじゃないかな、と感じました。
このドームは、こんな姿になるはずではなかった。
立派な産業会館として、緑色のドームも誇らしく、どっしり構えていた。
それが、こんなふうに鉄骨がむき出しの建物に一瞬で変わってしまった。
中にいた人たちは全員即死している。
保存する計画が持ちだされたとき、反対意見もたくさんあったそうだ。
見ているのが辛すぎるから。
このドームを見るとき、今の姿だけを見るんじゃなく、
元の姿を想像するのが「ただしい」見方なのかもしれない、と思ったりしました。
もちろん、日常の一部だから見るたびに涙ぐんではいられないのだけど
今年はゆっくり歩いて、いろんなものをゆっくり見て、考えたい。そんな気分です。
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図書館へ歩く途中、橋の影の上に座る猫を見た |